語句説明・資料

東照宮祭

徳川家康は1616年(元和2年)に75歳で没した。その九男で、尾張初代藩主である徳川義直が、家康の菩提を弔うため、元和5年9月17日に名古屋城内に東照宮を創建、三年忌にあたる1618年(元和4年)から「名古屋祭り」とも呼ばれた「東照宮祭」が始まった。
1619年(元和5年)の祭礼行列に、地元の七間町(「京町より杉ノ町迄を上七間町といひそれより伝馬町迄を下七間町といふ、祭車は此下七間町より出す」『なごやまつり』伊藤門水著)が大八車二輌を組み合わせた上に、能人形西行桜を飾って曳き出したところ人気があったので、次の年には弁慶と牛若丸が立ち廻りを演ずる橋弁慶車とした。この弁慶、牛若丸がのちに工夫されて、からくり仕掛けで動く人形となるにつけて、他町もこれをまねて次々と競ってからくり人形の乗る山車を作って祭りに参加するようになった。

七間町西行桜 想像図

橋弁慶車(元和5年に能人形西行桜を飾る、元和6年より橋弁慶車 七間町)、林和靖車(元禄4年より梵天車、享保17年より林和靖車を造る 伝馬町)、雷電車(承應元年より 和泉町)、道成寺車(明暦2年より、享保17年より二福神車と改正した 長者町)、湯取神子車(万治元年より 桑名町)、石引車(寛文2年より石引車、宝永4年より竹生島、宝暦6年より唐子車を造る 宮町)、小鍛冶車(宝永4年より 京町)、石橋車(宝永元年より 中市場町)、猩々車(慶安元年より鯛釣り、万治元年より猩々車を造る 本町)のからくり人形の乗る山車九輌が1707年(宝暦4年)までには、出揃っている。(山車の順番は曳渡し順)
なお、1763年(宝暦13年)淀町の山車に指南車が作られ、祭りの行列に加わった。
尾張藩あげての祭りである東照宮祭は、開始以来80年間に九輌の山車と35カ町の警固が揃う祭りとなり名古屋の住民の人気を博していた。その祭りの呼び物「からくり山車」は、近隣の祭りにも影響を与え、尾張一帯に広がった。

山車

多賀谷環中仙(たがやかんちゅうせん)1730年(享保15年)に著す。京都の漢方医で、数学や機巧の研究もしていた人である。本は松・竹・梅の三巻からなり、上巻にあたる「松」の巻に27種類のからくりが絵巻風に書かれている。傑作なのは下巻にあたる「竹」「梅」の巻で、それぞれのからくりの種明かしを"指南図解"と称して解説している。「唐人笛吹からくり」「唐人の人形笛ふき物いふからくり」「太鼓のからくり」「小かじのからくり」「人形文字書からくり」「三段返りかるわざ人形」「かるわざの人形仕様」など。指南図解の「種明かし」を見ても子供だまし的な感じが強い。「竹」「梅」の巻には32種類のからくりが紹介されている。