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玉屋庄兵衛 からくり人形
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からくり考論説集

からくり考論説集

名古屋大学名誉教授・愛知工業大学客員教授  九代玉屋庄兵衛後援会 会長 末松 良一

○「からくり」は日本特有の言葉
 「からくり」という語は、外国語にはない日本特有の言葉である。日本最初の辞書である鎌倉時代の「名語記」(1268年)にも、室町時代の節用集にも、「からくる」という動詞形は記されているが、「からくり」という名詞形は見られない。故に、「からくり」という言葉が広く用いられるようになったのは、江戸時代に入ってからと推察される。
 図1に、江戸時代に使われた「からくり」「からくる」と読む漢字の例を示した。これらの漢字からも分かるように、「からくり」という言葉は、時計、織機など機械装置全般から、糸や差し金を操って動かすこと、工夫を凝らして物事を仕組むことなど、仕掛け、仕組み、トリックまで広い意味で使用される。狭義には、からくり人形の略として、見えない所で糸やゼンマイなどを用いて機械的に動作する人形を意味する言葉として用いられる。

図1 江戸時代に使われた「からくり」図2 機械仕掛けの指南車(筆者作成)

○ からくりの魁(さきがけ)
 機械装置・機械仕掛けとしての「からくり」の始まりは、奈良時代に造られた指南車が上げられる。学僧智由が9年がかりで製造し、天智天皇に献上したこと(666年)が日本書紀巻二六に記載されています。また、からくり人形の魁としては、平安時代の今昔物語巻二四に出ている。子供の頃から細工が得意だった高陽親王(かやのみこ)が、旱魃の年の京都で童子人形を造り、田に立てた。人形は両手に器を持ち、その器に水を注ぐと、人形が器を掲げ頭から水をかぶった。人々はその人形の仕草を楽しんで次々と水を器に注ぎ、田は水で満たされたという話が紹介されている(今昔物語では、このからくり人形を構えと呼んだ)。
 平安時代から室町時代にかけて、胸からぶら下げた箱の上で小さな人形を巧みに操って町々を歩き渡った「首掛け箱回し」である傀儡師(くづつし、えびすまいともいう)がいた。西宮神社の御札を配りながら辻芝居を行う傀儡師は名高い。安土桃山時代には、織田信長が家康を招いたときに、からくり仕掛けの金銀細工を譲渡したことや、秀吉が子秀頼をひざに抱いて「銭を入れると回る人形」で遊んだ等の記録がある。


○ からくり人形の発展経緯
 からくり人形は、演じられる場所によって、「座敷からくり」「舞台からくり」「山車からくり」に分類される。ここでは、まず、「座敷からくり」と「舞台からくり」が、どのようにして江戸庶民に浸透して行ったかについて記す。
 茶運び人形などに代表される「座敷からくり」は、江戸時代に入ってから多く造られるようになった。江戸初期には、高価であるが故に、大名、公家、富豪商人など一部の上流社会に限定されていたようである。しかし、露天商や見世物小屋などで客寄せ用として、座敷からくりが大衆の目に入るようになったのである。

図3 茶運び人形を詠んだ句

 図3に、茶運び人形を詠んだ2つの句を示した。1つは、井原西鶴(1642年〜1693年)の句で、「茶を運ぶ人形の車はたらきて」である。西鶴が茶運び人形の内部の構造を見て、歯車などの精巧な作動に感動して詠んだものである。この句が茶運び人形に関する最古の記録であり、17世紀後半には茶運び人形が製作されていたことが分かる。もう1つの句は、小林一茶(1763年から1828年)の俳句で、「人形に茶を運ばせて門涼み」である。庶民の生活を好んで詠んだ小林一茶が、茶運び人形を詠んだことは、当時の庶民の多くが、茶運び人形がどんな人形かを知っていた証(あかし)といえる。


○ 舞台からくり「竹田からくり芝居」の隆盛
多くの日本人がからくり人形を楽しむようになった契機は、初代竹田近江が1662年(寛文2年)に旗揚げ公演した「竹田からくり芝居」である。竹田からくり芝居は、四代100年にわたって日本各地で評判を博した。その演目の一例を竹田からくりの引札(広告チラシ)で紹介する。「乗物拝領駒」という演目で、からくり人形が馬で輪乗りをし、次に、馬を乗り捨て籠抜けをして、撞木(しゅもく)に掴まり足を離し、生きたチン(犬)に飛び移り楽屋へ走り去るというものである。図5に示すように、子供狂言やおどりを挿んで、からくり15演目ほどが1日の興行で行われ、庶民の大人気を呼び、全国各地で興行巡業された。段返り、文字書き、変身、逆立ち、弓曳きなどのからくりが竹田からくり芝居として考案され、多くの人々を楽しませたのである。竹田からくりに代表される舞台からくりは、からくり人形の面白さを庶民に浸透させると同時に、仕掛けの不思議・興味を喚起し、ものづくりの面白さを庶民に育んだ。

図4 竹田からくり芝居の引札(現代語訳は筆者)図5 口上

○ 竹田からくりの進化・変遷
 四代100年に亘って一世を風靡した竹田からくりも、時の経過とともに、生人形、籠細工、奇人・変人の見世物へと大衆の興味が移って行ったといわれているが、筆者は、竹田からくり芝居は、他の芸能や祭礼行事に進化・変遷していったと見る。すなわち、図6に示すように、竹田からくりは、大坂では人形浄瑠璃・文楽に、江戸では歌舞伎という芸能に、そして、尾張(名古屋)では、祭礼の山車の上山でからくり人形が演技を披露する「山車からくり祭」に受け継がれていったのである。舞台からくりの竹田近江や京都の山本飛騨掾(やまもとひだのじょう)が人形浄瑠璃に関わった事実は周知のことである。また、江戸時代の歌舞伎は、外連(けれん、仏壇返し、提灯抜け、宙づり、戸板返しなどの舞台仕掛け)によって大衆を魅了し、人形振りという役者の演技法も受け継がれている。江戸時代の歌舞伎は、舞台からくりの技芸を大いに取り入れて発展したと言える。

図6 竹田からくりの進化・変遷

○ 山車からくり祭
 図7に全国山車からくり分布図を示した(参考文献:山崎構成著、曳山の人形戯)。全国では80地区の祭礼で現在でも山車からくり祭が行われているが、その約半数が愛知県内であり、8割程が中部地区である。祭礼のすべての山車にからくり人形が載った祭で最も古いのは、名古屋東照宮祭である。

図7 全国山車からくり分布図

 徳川家康を祀った名古屋東照宮祭の山車からくりは、参加する七軒町が2台の大八車に西行法師と桜を模ったことから始まった(1619年)。これが山車からくり祭の始まりである。東照宮祭は、天保年間に最盛期を迎え、華麗なからくり人形を載せた9両の山車(9輛の山車すべてにからくり人形が載ったのは1707年頃)、幡・警固、神輿など7000人の祭り行列になったといわれている。残念ながら東照宮祭は、戦災で消失し途絶えてしまったが、その栄華は、旧尾張藩各地に伝播し、今なお盛大に継続されている。犬山祭は、今年382回を迎え、岩倉祭り、半田亀崎の潮干祭、津島の秋祭り、名古屋の戸田祭など200年以上続けられている祭りが多い。山車からくりの演目は、おとぎ話、神話、能・歌舞伎などから題材を選び、製作されたものも多いが、竹田からくり芝居などの舞台からくりをそのままの形で山車からくりとして受け継がれているものも数多くある。

図8 愛知県山車からくり祭分布図

○ 山車からくり祭の果した役割と意義
 京都の祇園祭をはじめ、東京の三社祭、大阪の岸和田だんじり祭、博多どんたく、青森ねぶた祭など、日本には伝統的なお祭りが数多くあり、地域の人々の絆、生き甲斐ともなっており、観光産業に貢献しているが、地域の神社に山車が勢揃いし、からくり人形の演技を奉納する形をとり、観客の拍手、喝采を競う山車からくり祭は、他のお祭りと同様に、地域・家族の絆や観光面に加えて、以下の重要な役割を果たして来た。
 (1)山車からくり祭は、文化・技芸の伝承だけでなく、観客に科学技術への興味の喚起、創造力の涵養を持続的に担って来た事業である。高専ロボコンは、1988年に創造性教育の実践の場として導入されたが、山車からくり祭は、数百年前からロボコンと同じ役割を果たして来たといえるのではなかろうか。
(2)山車からくりの演技は、「観客を如何に感動させ、拍手・喝采を浴びるか」を追求した数百年の知恵と技を受け継いでおり、機構だけでなく感性価値付与の面からも貴重な手本的存在である。人に優しい人間主体のロボット設計の指針を与えるものである。
(3)年に1度の家族ぐるみ、町ぐるみの祭りの中で、からくり人形の素晴らしい演技を見てきたことが、ロボット好きの日本人を育み、誰にも愛される正義の味方「鉄腕アトム」を生み、稼働台数世界一を続ける産業用ロボットの導入を促進した。

○ 「からくり」と「ものづくり」
 最初に記したように、「からくり」という言葉は、単に木製ロボットといえる「からくり人形」のみを意味するのではなく、和時計、織機など機械装置全般を意味している。
 豊田佐吉が木製織機(からくり)の改良に取り組んだことが、今のトヨタ自動車をはじめとする自動車産業の発展につながったことは有名であるが、上で述べたように、愛知県や中部地区で毎年行われている山車からくり祭が、この地域の産業技術の源流になっていることをもっと多くの人々に周知したい。
 また、2000年代に入って、「からくり」をキーワードとした改善・工夫が日本全国の製造業の現場で活発になっている。1.メカの楽しさ・面白さ、シンプルな機構ゆえの 2.低価格 3.高信頼を掲げる「からくり改善」(日本プラントメインテナンス協会登録商標)活動である。近年になってアジア諸国にも浸透しつつある。下図は、「からくり改善」の代表的事例である、無動力搬送車「ドリームキャリー」の模型である。

図9 無動力搬送車:ドリームキャリー模型

 幼少時に見た茶運び人形からヒントを得て、製品の重力を巧みに利用したアイシンAW(当時)池田重晴氏の発明である。(2003年第1回日本ものづくり大賞受賞)工場内で1つの製造ラインの終点から、次の製造ラインへ製品を搬送する車の駆動力と空の台車を元の位置へ戻すバネエネルギーを始点から終点までの製品の位置エネルギー(重力)から得ている。この無動力搬送車は、さまざまな形態に進化し、現在では30カ所以上で稼働している。

○ からくり街道とノーベル街道
 山車からくり祭が盛んな中部地域を表す言葉として、1990年代後半頃から、愛知県の知多半島から犬山、岐阜県美濃、高山を結んで富山県城端、高岡までを「からくり街道」と呼ばれるようになった。
 図10は、日本経済新聞(2004年2月26日)記事の抜粋である。

図10 からくり街道

 「からくり街道」と主要製造事業所の分布がよく符合し、山車からくり祭が、ものづくり技術の継承発展に貢献していることを改めて指摘した記事である。
 全国的に見ても(図5参照)、東端の日立まつり「風流物」、北端の新潟小千谷祭などもものづくり産業地と重なるのである。
 山車からくり祭が果たしてきた役割と意義についてはすでに述べたが、図8はその証といえるのである。
 さらに、2015年10月7日の中日新聞の夕刊を見て私は膝を叩いた。その記事は、名古屋と富山を結ぶ国道41号線沿いに、日本人ノーベル賞受賞者の研究施設あるいは住居が存在していることを報じたものである。当時の日本人ノーベル受賞者は24名、そのうち12名が該当する。図11は、2016年の受賞者を加えたものを示した。

図11 ノーベル街道

 この「ノーベル街道」は、明らかに図10の「からくり街道」と符合する。「からくり街道」と「ノーベル街道」は偶然の一致なのか。いやそうではない。私は、「科学・技術・技能は三位一体である」と主張する。ノーベル賞級の新理論の発見もその実証なくしては評価されない。その実証には、その理論を支援する技術者および技能者の協力が不可欠である。先に述べたように、山車からくり祭は、技能の伝承の役割を果たしてきた。さらに、アイディア対決高専ロボコンのように、ものづくりへの興味の喚起、創造性の涵養などの効果を地域に与えてきたのである。
 蛇足ではあるが、科学技術立国として継続的発展を実現するためには、技能の保有こそが肝要である。科学、技術、技能の中で、一度失ったら取り戻すのに一番お金と時間がかかるは、技能である。科学・技術・技能の保有の大切さは、国単位だけでなく、地域、大学、企業それぞれの単位でいえることである。


○ 「からくりとものづくり」の常設展示場の創設
 能楽(2002年)につづいて、人浄瑠璃文楽(2004年)、そして歌舞伎(2006年)が、世界無形文化遺産に登録された。そして、和食がユネスコ世界無形遺産に登録され、続いて和紙が登録された。2016年12月には、全国の山車祭群が「山・鉾・屋台行事」として登録された。
 愛知県を中核としたこの地域は、数十年に亘り世界的産業技術中枢圏を形成して来た。その産業技術の源流は、伝統的な江戸からくりの技芸を今に伝える山車からくり祭にあると私は主張する。そこで、愛知県に「山車からくり祭とものづくり」をテーマとした常設展示場の設置を提案したい。明治以降この地方で発展した、時計・織機・工作機械・輸送機械などの製造業の歴史的経緯の紹介、「からくり改善」の実例展示、からくり人形の面白さ、楽しさを、舞台で実演する常設展示場である。この地方には、数多くの山車からくりが現存しているので、週替わりのからくり演目のプログラムを制作し、各祭保存会へ実演を依頼することができないであろうか。
 舞台は、廻り舞台装置を備え、裏舞台で次のからくり演目を準備して、来場した観客にからくり人形の演技を堪能してもらえる施設としたい。山車からくり祭は、4月〜6月と秋10月に集中する。私もからくり人形に興味を抱いて20年以上になるが、まだこの地方の山車からくりの5分の1ほどしか見られないのが現状である。からくり演目を上演する常設展示場の設置を望む所以でもある。

図12 山車からくりを実演できる常設展示場

参考文献: 「からくり」語源考:林和利, 名古屋女子大学紀要,第62号(人文・社会編),p332. 曳山の人形戯:山崎構成,東洋出版,1981年. 大からくり絵尽:山田清作編,米山堂,稀書複製会,1993年.
大からくり絵尽現代語訳:末松良一,http://karakurifront.com/ookarakuri/ookarakuri.html