享保十八年(1733)この年から東照宮祭の伝馬町の山車が林和靖車に新調されました。このからくりは中国の聖人林和靖、鶴追い唐子と、長い首を自由自在に動かし羽ばたく鶴とザイ振り唐子からなるもので、鶴の操り方を町内の人に指導するために、京都から鶴からくりの名人庄兵衛が名古屋にやってきました。翌年の東照宮祭の前にも伝馬町から指導の依頼があり、名古屋玉屋町に移住することを決意し、町名にちなんで玉屋庄兵衛となのるようになりました。
当時は、尾張藩主徳川宗春の治世(1730~39)で、宗春が敷いた祭奨励策が玉屋庄兵衛を誕生させたと言えます。
尾張藩主徳川宗春の時代の東照宮祭は、年々、華麗な山車行列になっていきましたが、この東照宮祭が刺激となって、尾張各地でも競って匠の技を凝らした山車からくり祭が催されるようになりました。
日本の他の地域では、吉宗の倹約令の下、厳しい緊縮財政と質素倹約を強いられていた時代に、名古屋を中心とする尾張藩に関係する地域では、竹田からくりや山本一座の知恵と技を山車からくりとして後世に伝承することができました。
この山車からくり祭の隆盛が、名古屋に地において全国唯一の人形師の家柄である、初代庄兵衛から現在の九代玉屋庄兵衛まで、歴代玉屋庄兵衛を育てえたと言えます。
初代玉屋庄兵衛は京都で鶴などの動物のからくりを得意とする細工人といわれ、名古屋伝馬町の林和靖車の鶴からくりが縁で名古屋に定住することになりました。大津祭の龍門滝山の鯉も初代の作と推察されます。
二代目の作品としては、名古屋有松町布袋車の文字書き人形があります。
三代目の作品としては、小牧市中本町のさい振り人形と犬山市外町の梅の木上逆立からくり、西枇杷島町紅塵車の麾振り人形と鳥に変身する鳥舞唐子などが現在でも毎年のお祭で多くの人々を楽しませています。
四代目、五代目は人形等に製作年や作者名を残しませんでしたが現在調査中の研究者(愛知山車祭り研究会会員)から40体ぐらいの製作確認がなされています。
六代目の作品としては、犬山市新町の浦島があります。
七代目は、第2次世界大戦後に各地のからくり人形を数多く修復、製作をおこないました。また、千三百年の歴史を誇る京都祇園祭に、応仁の乱以前から巡行していた大蟷螂と御所車というユニークな蟷螂山を百十年余を経て、1981年(昭和56年)に見事に復活させました。それ以来、祇園蟷螂山のからくり操作は九代玉屋庄兵衛が担当しています。『機匠図彙』にある「茶運人形」を1970年(昭和45年)、各種の改良点も加え、玉屋庄兵衛モデルの「茶運人形」として復元しました。
本名正夫。1950年(昭和25年)名古屋市生れ。25歳で七代目に弟子入り、1988年(昭和63年)七代目が他界、長男として八代目を襲名。伝統的からくり人形としては、大四日市まつり甕破り山車人形、犬山祭り猩々人形、同羽衣人形などからくり山車人形を手掛ける。また、地方の時代の流れに応え内外の博覧会においてコンピューター制御のからくりモニュメントを制作(名古屋市デザイン博「名古屋市館 橋弁慶人形」、三重県 まつり博「松尾芭蕉人形」「茶運び人形」、イタリア・ジェノバ博愛知県館人形三体制作など)。同時に、この地域を中心に街づくりのシンボルとして屋外型のからくりモニュメントを数多く制作(名古屋市 若宮大通り「からくり人形時計塔 三英傑人形」、犬山市 犬山駅東口「からくり人形時計塔 桃太郎人形」、名古屋市 名古屋港水族館「浦島太郎伝説」、名古屋市 万松寺「からくり信長人形」など)。さらに、各地のからくり関連の博物館に常設展示からくり人形を製作(金沢市 天徳院「珠姫物語」、金沢市大野からくり記念館「からくり芝居 芋掘り藤五郎人形」、岐阜県古川町 起こし太鼓の里(祭り会館)「三番叟人形」など。) 1995年(平成7年)3月 玉屋庄兵衛の名を弟庄次に引き継ぎ、創作からくりに専念するため、自らは萬屋仁兵衛を名乗る。同年8月23日没。