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玉屋庄兵衛 からくり人形
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からくり人形の歴史

からくり人形の歴史

古来、人形は神の「依り代(よりしろ)」として生れ、神聖なものとされてきました。この人形にからくりの技術が結びつき、祭礼の呼び物や玩具、また興行の一分野として発達し、今日のからくり人形を形づくりました。
文献に見るからくり人形の歴史は、斉明天皇四年(658年)の「沙門の智踰が指南車を造る」とあり、これがからくり人形の初見とされ(『日本書紀』)、「指南車」はからくりの始まりと言われるゆえんです。
斉明天皇660年(斉明6年)5月、中大兄皇子(後の天智天皇)が「初めて漏尅(トキノキサミ)を造る。民をして時を知らしむ」(『日本書紀』)とあります。また、天智天皇(661-671)の10年4月25日に「始めて漏刻を新しい台に設置して鐘鼓を鳴らして時を告げた」(『日本書紀』)とあります。太陽暦に直すと西暦671年、6月10日となり、大正9年にこの日が「時の記念日」とされました。天智天皇を祀る近江神宮では毎年この日に漏刻祭が行われています。
「平安朝初期の仁明天皇即位の大嘗祭(833年)の楽標で、舞人が出る毎に曲目を書いた障子を揚げてみせる二体の機関童子を乗せた大きな象の造りものであった(『続日本後記』)」(西角井正大 『尾張の山車からくり』8頁名古屋城博開催委員会 発行)との記述があります。
人を模した「からくり人形」の最古の記録は、『今昔物語』に出てくる、高陽親王(桓武天皇(781-806)の第七皇子)の機械人形があります。旱魃の京都の水田に、両手に器を持った四尺ほどの人形を創り、人がその器を水で満たすと人形は器を揚げて頭から水をかぶるというからくり人形で、その動作が人気を呼んで、その水田は潤ったという話しが載っています。(原文は資料編参照)
また、『今昔物語』には、絵師の百済川成(835年没)と飛騨工匠との業比べの説話があります。飛騨の匠の造った四面の堂に川成が入ろうとすると戸が閉まるというものです。(『今昔物語』巻二十四、第五)(原文は資料編参照) 
「室町時代になると宮中や貴族の日記類の中に「あやつり」という言葉でからくりが次のようにでてくる。「あやつりて金を打ち舞う人形を盆踊りの会場に立てた」(『看聞御記』1421年・応永28年)「一の谷合戦や牛若弁慶の物語をあらわしたあやつり燈籠が宮方へ進上された」(『看聞御記』1436年・永享8年)「宮中への捧げ物としてからくり細工の鶴亀の置き物が使われた」(『看聞御記』 1437年・永享9年)」(千田靖子『からくり人形の宝庫―愛知の祭りを訪ねて―』30・31頁)とあります。
また、「からくりの語が初めて出るのは1579年(天正7)になってからのことで、一間四方の城かたちの中に敵味方二千人ほどが配されていたという」(『甲陽軍鑑』)。しかしこのころは「あやつりからくり物」と呼ばれていて語としてはまだからくりが独立していなかった。」(西角井正大 『尾張の山車からくり』8・9頁名古屋城博開催委員会 発行)とされています。

傀儡師 摂津名所図会平安時代から室町時代にかけて、傀儡師とか戎回しとか呼ばれる人形遣いが登場します。町々を歩き回わる遊芸である傀儡芸は、木箱を首から提げ、箱の上の小さな人形を箱の中へ手を入れて糸や指で動かす簡単なやりかたで箱の中で操り、人形を唄に合わせて踊らせるのが売り物でした。


傀儡芸の様子がわかる山車からくりが現存します。愛知県半田市の亀崎地区の、主役を努める5台の山車のなかに、竹田からくりの"生きた化石"といわれる人形があります。亀崎、田中組が伝承している神楽車の上山(山車の最上階部)に飾られ「傀儡師人形」で、人形のモデルは、室町時代に、後の江戸からくりにつながる大道芸・門付芸を売り物にした傀儡師です。この人形の演技は、はじめに首から吊るした台の上で、唐子人形の芸を披露し、つづいて上体が後ろへ倒れると同時に、弁慶、義経を乗せた船の出る能の「船弁慶」の舞台に変化するというものです。制作年代は宝暦年間(1750年代)の作品とされています。

亀崎・田中組が伝承している 神楽車の上山(山車の最上階部)に飾られた「傀儡師人形」
御伽傀儡師
傀儡子人形が後ろへ倒れると、弁慶、義経の乗った船に変化する。
平知盛の亡霊も登場する。