尾張を中心とする中部地域では、京・大阪や江戸と異なり、竹田からくりは山車祭のからくり人形として受け継がました。この地方では、からくり仕掛けそのものへの関心が集中したようで、祭礼の山車の上に多種多様なからくり人形が搭載されている所が多くあります。
山車まつりは、869年(貞観11年)から始まる京都祇園祭が出発点とされ、山鉾のような山車が出る祭りとして山車祭りが全国に普及しましたと云われています。祇園祭りの山鉾には神の依り代として人形が乗せられていますが、動く人形であるからくり人形がのる山車は、中世尾張の熱田新宮天王祭(文明年間1469~1486)や津島天王祭(永享7、8年1435、6に祭興る、大栄二年1522人形を乗せた記録あり)の大山が始めとされています。
竹田からくり芝居のような見世物興業などを通して、からくりの知識が広がりを見せる中で、搭載した人形の体内にからくり仕掛けを装置し、囃子に合わせて演技をさせる所が出来てきました。江戸時代の前期の終わりごろから中期の初めにかけての頃で、いわゆる「山車からくり」の誕生です。
八代将軍吉宗(1716年享保1年~1745年延享2年)は、幕府財政の建て直しのため、厳しい倹約令を出し、質素倹約を庶民に強いました。倹約令の一貫として、享保六年(1721)新しい機械や織物の製造を禁止した、いわゆる「新規法度の御触書」を出し、ぜいたくを禁止し、倹約を徹底させるとともに、新しい機械の発明・工夫を禁止しました。このため、技術の発達は大きく阻害されることとなりました。
しかし、「見世物等之義は新規之事不致候ては如何候間、此段は可格別事」として見世物などはほかの技術分野が多く制約を受けた中で、禁止分野とはされませんでした。幕府としても庶民の娯楽まではその対象にはしませんでした。
このような時代背景のもと、享保十五年(1730)七代尾張藩主になった徳川宗春は「民と共に世を楽しむ」政策をとり、遊興や祭を奨励したことにより、尾張名古屋には数多くの職人が住み着くようになりました。京都のからくり人形師であった玉屋庄兵衛もその一人です。
玉屋庄兵衛の歴史は享保十九年(1734)に初代が名古屋に移り住んだことから始まり、山車からくり人形の制作や修復に代々かかわり、現代の九代目まで継承されています。
家康を祀った東照宮祭など、尾張を中心とした各地の山車からくり祭は、この頃から豪華絢爛なものとなり、からくり人形も大技を競うものとなっていきました。
尾張名古屋は、徳川御三家の筆頭という尾張藩の政治力、加えて北に支配下においた木曽の山林、南に伊勢湾、三河湾を持ち、情報集中度の高い東海道の要所でもあり、穀倉地帯でもある濃尾平野の豊かな経済力や宗春ら尾張藩主の祭礼奨励によって、からくり山車文化が栄える元となりました。当時としては "高級品"であったからくり人形をたくさん所有することができたのもこのような背景があったからと考えられます。この地域のからくりは技を競い、山車も幕、彫刻なども豪華さを競って、江戸時代後期に最盛期をむかえました。
しかし、尾張名古屋においても、からくり山車普及の過程においては、「新規法度の御触書」という環境のなかではいろいろな苦労があったようです。高力種信『猿猴庵日記』の1802年(享和2年)6月の箇所に「十三日、西枇杷島六軒町神祭、当年より車初まる。但し社前に餝(かざる)のみ、引く事は当年は先ず相見合わせ之筈。御役所より指図有之由。・・・中略・・・人形を上ぐる事は不済とぞ」の記事があります。10年後の1812年(文化9年)6月の祭礼でやっと「十一日、枇杷島祭人形上ぐる事、当年より御免。ただし、からくりは未成(まだなり)。唐子石橋、梅に仙人、公家鞠遊、万歳等也」 その翌年の文化10年6月の祭礼から「枇杷島の祭の車、当年始めて人形からくり御免」。徳川御三家の筆頭である尾張藩でも、他藩と同様に産業の機械化は「御禁制」で、からくり=機械の取り扱いには、相当に神経を使っていたようです。
愛知・岐阜両県のうち旧尾張藩領であった尾張・美濃地方には、江戸時代から祭礼の主役にからくり人形を搭載した山車を使う所が多く、現在でも二百台を越える山車が保存されています。その数は、全国のからくり山車の80%以上にあたり愛知・岐阜両県に集中保存されています。
愛知県下では、150余りの祭りで400輌を越える山車が現存し、その約四割にあたる約150輌の山車に400体以上のからくり人形が搭載されていて、まさに愛知県は山車からくりの宝庫といわれる由縁です。
世界的に見ても、18世紀前後の機械技術の資料が、生きたかたちで、これだけたくさん保存されている例は稀有のことと思われます。