室町時代、神社仏閣では参詣する善男善女へのサービスに、簡単な仕掛け付きの人形を使う所が出てきました。安土桃山時代になると、座敷からくりの原型のようなからくり人形が誕生します。仕掛けも精巧味を帯び、楽しむ人も公家、大名など身分の高い階層になってきます。大名道具と呼ばれる"高級玩具"の中にはテコ、バネ、滑車などの簡単な部品を装置していたものもありました。「御所人形」と呼ばれる座敷からくりもその一つです。
織田信長が家康を安土城へ招くにあたり、からくり仕掛けの金銀細工盃台が献上されたといわれています。また、豊臣秀吉が子の秀頼を膝に乗せ、銭を入れると回るからくり人形で遊んだという話し(『老人雑話』)が知られています。
江戸時代になると、茶運人形や品玉人形などの座敷からくりが多くつくられ、大名、公家や豪商などに普及しました。遊女吉野太夫(二代目寛永年間1624-1643)も「からくりの酒運び蟹」を愛玩したとわれます。(滝沢馬琴『著作堂一夕話』)
竹田からくり芝居は、寛文二年(1662)大阪道頓堀で旗揚げ公演されました。(『摂津名所図絵』寛政十年刊行、『璣訓蒙鑑草』享保十五年刊行)(『摂津名所図絵』『璣訓蒙鑑草』資料編参照)
竹田からくりは竹田近江が江戸浅草にお参りした帰り道、子供が砂遊びをしているのにヒントを得て砂時計の工夫を思いついたといわれています。1658年(万治元年)に"唐操偶人(からくりにんぎょう)"をつくり朝廷に献上し、出雲目を、また万治2年には近江掾を受領、その後寛文二年(1662)に"機捩戯場(からくりしばい)"を開きました。名古屋でも時々興業をしていたことが記録に見えます。
芝居からくりは、座敷からくりと異なり、観客に見えない所から人が糸や差金を用いて操りました。吹き矢からくり、段返り人形、文字書きからくり、変身からくり、弓曳人形、胎内十月、枕返しなどが人気を呼びました。
竹田からくり芝居が寛保元年(1741年)に初めて江戸下りをし、16年後の宝暦7年(1757年)に二度目の江戸巡業を実現し、大評判をとりました。それを受けて翌年の宝暦8年に江戸で出版されたのが『大からくり絵尽(えずくし)』という竹田からくりの記念本です。
その後、竹田からくり芝居は、竹田近江四代100年に亘り、日本各地で公演され、多くの庶民がからくり人形の演技を楽しみました。
竹田からくりは、もともとからくり人形を役者に見立てて演技をさせるため、どうしても"芸"の質的向上にこだわるようになり、大阪においては芸術性を追求した「文楽」に至ります。三人遣いの人形浄瑠璃・文楽は、人情世話物の芝居として人気を呼ぶ様になりました。
また、「江戸では、外連(けれん)でみせる歌舞伎が庶民にしたしまれるようになった。万事が派手好みの"江戸っ子"にとって、人形の仕草も可愛いが、つまるところ木偶人形としか思えなかったかも知れない。それよりも大仕掛けは大からくりの方が江戸っ子の性分に合っていたのだろう。江戸では、竹田からくりが歌舞伎の"階段の打返し" "仏壇返し"に名残をとどめている。」(高梨生馬)とされます。