九代目玉屋庄兵衛後援会

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玉屋庄兵衛 からくり人形
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からくり人形の歴史

海外からの影響

1.「機械式時計」の伝来

日本に渡来第1号となった機械式時計は、スペイン生れの宣教師フランシスコ・ザビエルが布教の許しを得るために、当初、周防(山口県)地方の大名だった大内義隆(永正4年(1507年)11月15日-天文20年(1551年)8月末)に天文20年(1551年)献上した「自鳴鐘」(じめいしょう)機械式置時計であるとされています。(『大内義隆記』)
現存するものでは、1612年(慶長17年)に、徳川家康が当時のスペイン国王フィリップ三世から贈られた「置時計」が、静岡市の久能山東照宮に保存されています。
からくり人形の発達には、これらの舶来の機械式時計の影響が極めて大きく、舶来時計を修理し、それを基に初めて和時計を作った津田助左衛門の存在は非常に大きいとされています。
日本で一番初に機械時計を製作したのは尾張藩で代々「御時計師・鍛冶職頭」を務めていた「津田助左衛門」家の初代助左衛門政之で、津田家に伝わる由緒書によれば、助左衛門政之がこの日本製の"第一号時計"を製作したのは1598年(慶長3年)のことです。徳川家康が朝鮮より献上された自鳴鐘(とけい)の破損を修理させた際に、さらに同じものを作製し献上したと記されています。フランシスコ・ザビエルが"舶来品"時計を日本に伝えてから47年後ということになります。
『尾張志』には、「自鳴磬(とけい)、俗に時計という。常盤町津田助左衛門これを作る(昔は自鳴鐘がトケイの正式名で、時計は俗称だったようです)。「先祖助左衛門京都に住せし時、家康公へ朝鮮国より奉りし自鳴磬損毀せしかは、洛中に觸てそれを修覆すへきものを尋給ひしに助左衛門細工を好みけれは深田正室と議して駿府にまいり直して奉りけるが、その間にあたらしく一飾を造りて奉れり。是によりて奉公しけるが、忠吉君に付属となりて清須に来り御遷府のときここにうつり御扶持を拝領す。いにしへ漏刻の器にて時を測りしが、近年自鳴磬を異国より献りし後、簡便の器なるがその製を知る人なかりしを助左衛門はじめて修復し、且新造して奉りしかば、その功少なからず。日本時計師の元祖というべし」(『尾張志』上巻、愛知県郷土資料刊行会90頁)とあります。
この津田助左衛門は、家康お抱えとなった後、忠吉とともに清須に移り、その後彼の子孫も代々尾張藩の御用時計師として仕え、正式に尾張藩の御時計師・鍛冶職頭となりました。名古屋地域は時計産業の一大拠点なり、明治期以降も存在し続けます。
名古屋市には、国産の機会時計"第一号"を製作した「尾張藩士・津田助左衛門」の故事に因んで和時計をモチーフにしたからくり人形時計塔が建てられています。(「若宮大通公園・矢場町交差点 からくり人形時計塔」)(高梨生馬)

[和時計の誕生]
室町時代末期に日本に伝わった機械時計は、江戸時代に日本独特の変化を遂げます。津田助左衛門を元祖とする時計師達によって、一定の時間を刻む定時法の西洋式機械時計は、当時における日本の時法であった、季節によって異なる時間の間隔を刻む不定時法にも使えるように作り変えられました。時間の周期を二つもち、切り換えるものや、文字盤の文字の間隔を変えるものなど"明け六つ""暮六つ"で自動的に交代するための仕掛け(スピード調整をするための脱進装置)が考案されました。不定時法の機械時計は世界で唯一日本で造られました。この日本式の時計は西洋式のものと区別して「和時計」と呼ばれます。

2.「鉄砲」の伝来

日本における鉄砲は、1543年(天文12年)鹿児島県の種子島に漂着したポルトガル船から、時の領主種子島時尭が二挺の鉄砲を買い入れたのが"第一号"です。時尭は家臣に命じて鉄砲や火薬の製法を研究させ国産化の準備をスタートさせました。この鉄砲は戦国時代の真最中という、兵器・武器の需要の高まった時代的背景もあって、またたく間に全国へ普及しました。この大量生産を可能にした裏には、銃身の製作工程で、すでに開発されていた日本刀を打つ時の鍛造技術がものをいったようです。この鉄砲をつくるという行為を通し広い意味で科学・工学技術向上がはかられ、からくりの発展にも寄与したものと考えられます。